2011年10月(左上:アビーロード)   2015年10月(右上:ストロベリー広場イマジンプレート)    2000年10月(右下:アビーロード))
 
 
◎私のビートルズ遍歴
  1950年(昭和25年)生まれの僕らにとって、ビートルズの存在とは、いったい何だったろうか?否、まだ残されたビートルが頑張っているのだから、まだまだ歴史は続いているのであるが、これ程まで、僕らに影響を与え続けている彼らの存在とはいったい何なのだろうか?
1964年 Please Please me
初めて聞いた時の衝撃は凄まじかった!小学生の頃からアメリカン・ポップスは、聴いていたのだが、その時彼らから受けた衝撃には、到底及びもしなかった。 僕らはかなり興奮していたが、日本では「こんにちは赤ちゃん」「高校三年生」が流行っていた時代であり、まだ一部の熱狂的なファンだけの世界だったかも知れない。
その当時の時代性(世の中が“ゆったり”としていたにも関わらず、かなりの偏見や誤解があった。)もあり心の内の興奮がストレートに発散できずに、もやもやしたものが、現在まで続いているのかも知れない。あの頃、「恋する二人は」
    1966年 Here there and everywhere
極東に興味を持っていた彼らは破格のギャラで来日した。既に僕らは高校生になっていたが、まだまだ武道館は遥か遠い存在だった。
しかし、イギリスのリバプールの港から日本の高知の港へ、彼らの音楽は確実に届いた訳だから、何処にいても、世界のどんな場所に居ても、彼らの音楽は届いていた筈だ。実際、確実に届いていた。
後日、いろんな仲間と同じ経験を話し合った事があるが、言葉や環境が異なっていても、同じ感性を持つ者には確実に届くものだと、妙に納得したものだった。逆にインターネットも携帯メールも無い時代にこそ、届くものがあったのではないかとさえ思った。
  1980年 Starting over 
1980年12月8日ジョン・オノ・レノンは凶弾に倒れる。
5年間の子育てを終え、音楽活動に復帰する矢先の出来事だっただけに、世界中のファンは“拠りどころ”を失ってしまった。当然、僕たちもショックで落ち込んでしまい、やり場のない憤りを感じたものだった。
司馬遼太郎さんの「竜馬が行く」に信奉している、竜馬ファンの気持ちに通じるところがあるのかも知れない。昨年出た、「ラブ・アンド・ピースぜよ <坂本竜馬はジョン・レノン?>」という本の中の強引な付録に、高知龍馬空港とジョン・レノン空港(リバプール)を対比させていたが、大政奉還で無血戦争を説いた竜馬と「イマジン」や「ギブ・ピース・ザ・チャンス」で平和を訴えたジョン、何となく似ていると思った。

1985年 札幌応援ライブツアー/渋谷ジャンジャンライブ  
ビートルズのコピーバンドをやっていた。ボーカルのK君が渋谷の神泉にあるスナックの仲間と知り合いになり、いっしょにその店でライブをやることになった。話はドンドン広がりジャンジャンを借りてコンサートもやったりしていた。さらに評判を呼び、札幌の某代議士に呼ばれ、スタッフ入れて総勢10人で出かけた事もあった。 
1990年 映画「Imazine(イマジン)」上映
諸事情により高知へUターンして、友人達と映画「イマジン」を自主上映した。それを機にビートルズ倶楽部を結成した。 
“イマジンでイブしよう”という甘いキャッチフレーズだったが、あまりの観客の多さにRKCホールの映写機が、オーバー・ヒートする程だった。(入場者1,000人余り)基本的に自分たちで見たいもの、聞きたいものを高知で作って行こうという考えで立ち上ったが、いろんな仲間が集まり出し、面白い集りに育っていった。
  あの頃、「恋する二人は」
1992年 映画「A hard day’s night(ビートルズがやってくるヤアヤアヤア)」上映
あまりにフィルムが古すぎたのか、フィルムの窪みが無くなり、空回りし途中で3回ほど止った。支配人(森)真っ青!
   
1994年 映画「Back Beat(バックビート)」上映
そこそこ人は入ったが、あまり印象に残っていない。
1999年 The Beatles box’99
妙な縁で「こうち元気者交流会」(高知県の委託事業)のメンバーと知り合い、共催でこの音楽祭を行った。いろんなジャンルの音楽家(12組)に集まってもらい、彼らの楽曲を楽しもうというこの企画は、ミレニエムに向けて大いに盛り上がりを見せた。
この資産が、高知街ラ・ラ・ラ音楽祭へ発展して行こうとは、その時誰が想像できたであろうか。

2000年 ロンドン・リバプール・ヒステリーツアー
齢傾き50才、長年の夢だった聖地参りを意を決して敢行することになった。
ロンドンも遠いが、その先のリバプールはまだまだ遠い! いろんな書籍を漁っている時、偶然司馬さんの「街道を行く~愛蘭土紀行~」に出合った。その本の中で、安部氏(現リバプール観光局勤務:リバプール在住30年)が司馬さんを案内した事を知り、早速安部氏にFaxした。聖地案内をタイミング良く快諾してくれ、これが大正解であった!

別れ際に、土佐のお土産(枡、土佐鶴(若村真由美)のポスター)を市長に渡したいと云ったら、わざわざリバプール市役所まで同行してくれ、表敬訪問させてもらった。 現在も安部氏とは交流があり、最新のリバプール日本語ガイドブックが届いている。
愛蘭土紀行は、司馬氏が「アイルランド」を訪ねた旅行記なのだが「イギリス」との対比でアイルランドを見つめており、なかなか「イギリス」の理解も深まるおススメ本だ。
  ロイヤル・アルバート・ホールで感激のガッツ・ポーズ! 気分はもう「ブラス!」のメンバー
2002年 高知街ラ・ラ・ラ音楽祭
Beatles box’99のスタッフだった故堀田氏が、仙台で盛り上っている「定禅寺ジャズ・フェステバル」の話を聞いて来たのが、事の始まりだった。
“是非これを高知でやってみたい”と熱く語った堀田氏の元へBeatles box’99を中心にしたスタッフが直ちに集まり、トントン拍子に本音楽祭が開催された。 この年は高知で国体が開催されており、県外からのお客さん達へ絶好のウェルカムにもなったようだ。高知の街へ新しい音楽シーンが流れ出した歴史的瞬間であった。
2002年 Paul Maccartney driving japan
大阪ドームの遠い席で、初めて“彼”の音を聞いた。冷静に聞いていたつもりであったが、初期のナンバーを聞いている内、いろんな事が走馬灯のように駆け巡り、思わず泣き出しそうになった。
   
2003年 僕らの正しいビートルズ学
高知市文化振興事業団から市民講座で“彼ら”をやりたいと要請を受けた。
とても面白い企画だったが、果たして彼らで大丈夫?果たして僕らで大丈夫?と少し考え込んでしまった。が、蓋を開けて見ると、定員30人は満員になり平均年齢50歳の同窓生達は、お互い懐かしいノルタジアを共有したのであった。
2005年 ラララ春祭りWith the beatles box’2005
 2005年3月21日、高知市文化事業団の「高知のアーティスト2004」の一環として本企画が開催された。‘99年度版より少し規模は小さいが、ブルーズ、ジャズ、クラシック、ロック、ワークショップと5組の様々なビートルズ・ワールドの登場だ。 ロビーでは高知街ラ・ラ・ラ音楽祭の写真集や秘蔵フィルムが上映された。
2006年 ライヴDVD制作・発表
この頃からいろんなイベントやライブ、お祭り現場から声がかかるようになった。メンバーの状況をみて、2人から6人までの編成で出来る限り出演を受けていた。やはりポールの曲が知られているせいか、リクエストが多いですね。写真
2008年 映画「アクロス・ザ・ユニバース」上映  
ジョンといっしょに宇宙を駆けよう! 劇場のロビーでライブを敢行する。
     
2011年 パリ・ロンドン・ツアー  
息子がウォーキングホリデイでパリの国虎屋(本店は高知県安芸市にあるうどん屋)に滞在していて、1年経ったので娘とお礼も兼ねてパリ・ロンドンツアーを行った。経費削減で北京経由の中華航空に乗ったのだが、これが大変な旅の始まりとなった。北京からパリまで10時間以上かかる長旅であるが、その機内の賑やかな事、騒がしい事。
息子の案内(流石1年ではフランス語は無理で、英語は喋っていた)で、パリ市内を親子3人で周りフランスの自由さを体験した。そしてドーバー海峡をユーロスターで時間で横断してロンドンに入った。2000年にリバプールまで行っているので2度目のロンドンである。子供達が通った横内小学校のT校長先生がロンドンの日本人学校長で渡英していたので、そこへ無理やりお世話になりました。このHPのトップページのアビーロードの写真をご覧下さい。
2013年 Out There! Japan Tour 2013  
福岡 ヤフオク!ドーム(福岡公演は20年ぶり)。「ノットーヤ?(ノッてるかい?)」などと博多弁を話したが、あまりのPA状態が悪く、アンコールを観ずに早めに中州へ飲みに行った。  
2015年

フェアヘブン・ニューヨーク・ツアー

 

ジョン万次郎の第一回英語弁論大会が、8月に高知市で開催されました。特別賞がマサセッツ州フェアヘブン市で開催されるジョン万フェステバルへの派遣。特別賞受賞の濱田君(14才)達とファアヘブンへと向かい、ジョン万次郎の14才から10年間暮らした足跡を体験しました。
その帰りは、ニューヨークまで車で4時間、待望のセントラルパークのストロベリー広場でジョン・レノンさんに対面です。
すぐ裏のダコタハウス改修中で近寄れませんでしたが、ここが若干40歳で短い生涯を終えた彼の最後の場所という事で、感慨深いものがありました。

2018年 ジョン万次郎を顕彰するCDを制作  

 若い人達にジョン万をもっと知ってもらために、作詞:中濱京、中濱万次郎 作曲:森 薫で5曲入りのCDを制作、その年の土佐清水市のジョン万次郎記念館の改築落成式で披露した。

 
2022年  ”五坪ほどの土地でも”元ちとせの最新アルバム「虹の麓」にクレジット  
 1970年に作曲してずいぶん時間が経ったが、元ちとせさんが歌って現在に蘇えった。ポール・マッカ―ト二―の「Here There And Everywherer」を彷彿させるが、 彼女が歌うとなぜか郷愁を帯びて異なった味が出てくる。  
 
 
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