◎土佐の幕末3人衆年表
 
 
  ジョン万次郎  樋口真吉   坂本龍馬
1815
文化12年
  土佐中村に徒士樋口信四郎の長男として出生。  
       
1827
文政10年
  土佐国幡多郡中の浜(現在の高知県土佐清水市中の浜)に貧しい漁民の次男として誕生する。 9歳で父を亡くし、奉公に行くなどして母を助けて一家を支えていた。 無外流から破門される。
九州に渡り柳川の大石流に入門。
60日(30日とも)にして免許皆伝を許される。

(23歳)
 

     
1835
天保6年
    高知城下本丁筋1丁目に、郷士・坂本八平の次男として生まれる。
1840年
天保11年
  再び九州に渡る。(26歳)  
1841
天保12年
 万次郎が14歳の時仲間4人と共に宇佐浦より小船で出魚したが嵐に遭遇し、 黒潮に流され漂流して一週間後無人島(鳥島)に漂着。アホウドリ(現在は天然記念物)が群棲しており、 この鳥や貝、海草などを食べて生き延びた。
約5ヵ月後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に救助され、 ハワイに到着。
ホイットフィールド船長に見込まれたジョン万は、仲間4人と別れて1年5ヶ月間、 捕鯨船で南太平洋の航海を続け、キリバス、グアム、鳥島からハワイをかすめモーレア島(タヒチ)からグアム再訪して南氷洋へ。 (14歳)
   
       
1843
天保14年
 ケープホーンを通過してアメリカのニューベッドフォードに着く。 マサチューセッツ州フェアヘブン、そしてスコンチカットネックに船長夫婦と共に生活しながら、 バートレット・アカデミー校などで英語や高等数学そして測量術や航海術など3年間勉強する。(16歳)    
1844
弘化元年
  父高齢のため代勤する。(30歳)  
1845
弘化2年
  藩主西巡の際、褒辞(武芸・学問多年出精)をもらう。(31歳)  
1846
弘化3年
 再び捕鯨船フランクリン号で出航、ボストンに寄港して大西洋を横断。 アゾレス諸島のファイアル島(又はピコ島)、サンチャゴ島に寄港して、喜望峰を回る。 インド洋のアムステルダム島でジョン万はナイフを口にくわえて海に飛び込み大亀を捕獲する。 (19歳) 大坂に行く、篠崎小竹に入門する。(32歳) 母・幸死去。この年、楠山塾に入門するが、他の塾生とのトラブルにより退塾となる。(12歳)
       
1847
弘化4年
 インド洋で正月、インドネシアのチモール島、ニューアイルランド、ソロモン諸島グアム島、 小笠原諸島の父島、琉球(マンビコシン)、鳥島、仙台沖と回り、ハワイに入港。 ここで漂流仲間に会うが、4人のうちの1人重助が既に死亡していた。
ハワイを出港して1848年にグアム寄港。船長が狂乱でマニラに寄港し本国送還を依頼した後、 ジョン万が一等航海士、副船長として出港、台湾、日本近海、ハワイホノルルに再入港する。
(20歳)
九州柳川に遊ぶ。
父信四郎死去。
(33歳)
 
1848
弘化5年
    日根野弁治道場に入門、小栗流剣術の修行を始める。(14歳)
1849
嘉永2年
 ソロモン、セラム島、チモールのクパン港、モーリシャス島、レユニオン島、マダガスカルの南の海上から、 喜望峰、セントヘレナ島をへて大西洋横断して9月23日ニューベッドフォードに帰港。
同年11月、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュに沸いているサクラメントで、 日本に帰る旅費を稼ぐ為にニューベッドフォードを出港する。木材運搬船で働きながら6ヶ月後サンフランシスコ着、 サクラメント、シェラネバダ山脈のノヲフレバ金山に着く。 (22歳)
跡目相続(家芸とも)。
剣術及び砲術修行のため柳川、長崎に遊ぶ。
(35歳)
 
       
1850
嘉永3年
 9月、約4ヶ月間で600ドルを稼ぎハワイへ、12月仲間の伝蔵・五右衛門の3人でサラボイド号に乗り出港する。 日本に上陸するためのボート「アドベンチャー号」に土産のものを積み込んだが、その中には辞書やワシントン伝記をはじめ多くの書籍があった。
のちにこのボートが日本人の手で初めて作られた西洋式ボートの雛形となり、持ち帰った本などが日本の夜明け前の指針となった。 (23歳)
坂本龍馬と中村(四万十川河川改修工事)で逢う?(36歳)  
       
1851
嘉永4年
 2月2日、琉球本島沖に到着し、摩文仁(現在の糸満市大渡浜海岸)に上陸する。 8月27日に薩摩藩の取調べ、そして10月23日長崎での幕府の取調べを受ける。 (24歳)    
       
1852
嘉永5年
 6月、土佐に帰るため土佐藩からの迎えと長崎を出発して7月11日高知城下に到着。 再び取調べと、絵師・河田小龍の漂流から帰国までの聞き取りが始まり「漂巽紀畧」が完成する。
11月16日、生まれ故郷の中の浜に帰着。3日間滞在後に土佐藩上席定小者に召抱えられ、高知城下教授館出任する。 万次郎は、その知識や英語力を買われ、土佐藩や幕府に招聘されて航海術や英語の指導、書物の翻訳や通訳等にあたる。(25歳)
中村⇒九州⇒江戸⇒帰郷(翌年)一年近い壮大な旅。
長崎でジョン万次郎に逢う。
大坂で佐々木三四郎と合流。
この旅行中、諸所で他流試合を試みる。
江戸で佐久間象山に入門。
 
       
1853
嘉永6年
 7月8日、ペリーが浦賀に来航、そのために万次郎は江戸に呼び出される。 深川の江川太郎左衛門邸内に住まい、幕府直参となり、中濱の姓を名乗る。団野鉄と結婚、洋式船建造、軍艦教授所の教授に任命される。 (26歳) ペリー日本遠征艦隊第一回来航

4月中旬、剣術修行のため江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門。
6月3日、ペリー艦隊が黒船4隻を率いて浦賀沖に来航。龍馬も品川海岸の警備にあたる。
兵学者・佐久間象山に入門、西洋砲術を学ぶ。(19歳)

1854
安政元年
 

中村下田など幡多郡内17カ所に砲台を築造する。 私的に大砲を鋳造する。(40歳)

ペリー日本遠征艦隊第二回来航

3月、「日米和親条約」締結。
6月23日、帰郷。その後「小栗流和兵法十二箇条・二十五個条」を受ける。
11月頃、土佐藩の絵師・河田小龍から海外事情を聞く。(20歳)
1855
安政2年
「ボーディッチの航海書」の翻訳完成する。 (28歳)   12月4日、父・八平死去。(21歳)
1856
安政3年
    8月20日、剣術修行のため、再び江戸へ。(22歳)
1858
安政5年
    1月、「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。○9月3日、江戸での2度目の剣術修行終え、帰国。 ○「安政の大獄」起こる。(24歳)
1859
安政6年
「英米対話捷径」完成。(32歳)    
       
1860
万延元年
 2月10日、咸臨丸遣米使節団教授方通弁主務として浦賀出港する。 嵐の中を事実上の船長として操船し3月18日サンフランシスコ到着、6週間滞在の後帰途ホノルルに寄港して6月23日浦賀帰着。 (33歳) 香美郡奉行所へ奉職。(桜田門外の変が起こる)(46歳) 3月、「桜田門外の変」で井伊直弼暗殺される。(26歳)
       
1861
文久元年
小笠原諸島の開発調査に咸臨丸で行く。 (35歳) 9月/帰国した武市半平太と接触。
10月/坂本龍馬「坂竜飛騰」と日記に記す。 12月/藩庁を辞して中村に帰る。(47歳)
8月、武市瑞山らが「土佐勤王党」を結成。後に龍馬も加盟。(27歳)
1862
文久2年
 

3月/越後浪人本間精一郎来るも逢わず。 坂本龍馬脱藩。
4月/執政吉田東洋暗殺される。
6月/藩主と共に上京。
7月/大坂で「竜馬に逢う、一円贈る」と日記に記す。
9月/西国探索(主に九州)のため谷干城と大坂出立。
11月/大坂帰着後、直ちに江戸へ差し立てられる。(48歳)

3月24日、龍馬、沢村惣之丞と共に脱藩。下関に向かう。
8月、江戸に下り桶町千葉道場に寄宿。
10月、千葉重太郎と共に、赤坂の勝海舟邸を訪問、弟子となる。(28歳)
1863
文久3年
    2月25日、勝海舟の求めで、龍馬らの脱藩罪赦免となる(しかし12月に再び脱藩の身となる)。(29歳)
5月16日、海軍塾の資金依頼のため、越前福井藩を訪ねる。
9月21日、土佐藩、勤王党弾圧を開始。武市瑞山ら投獄される。
10月、神戸で勝の海軍塾・塾頭になる。
1864
元治元年
薩摩開成所教授として赴任、英語・航海・測量・造船など教授する(37歳) 雌伏続く。(50歳) この頃、勝海舟との関係で各地を奔走、名士と会う。
8月、京都薩摩藩邸で西郷隆盛と会見。
11月10日、勝海舟が軍艦奉行を免職となる。龍馬の身柄を薩摩藩に託す。(30歳)
1865
慶応元年
  御勘定人加役拝命。 鋳造局下役加役拝命。 武市半平太 切腹。(51歳) 3月18日、神戸海軍操練所が閉鎖となる。
5月1日、西郷隆盛に伴われ、薩摩に初めて入国。
この頃、薩摩藩庇護のもと長崎に「亀山社中」を結成。
閏5月6日、下関で桂小五郎と会談、薩長同盟を説く。
6月下旬、中岡慎太郎と共に京都薩摩藩邸で西郷と会談。(31歳)
1866
慶応2年
後藤象二郎と帆船購入の為に長崎から上海へ2度往復する。(39歳)   1月21日、「薩長同盟」締結。
1月24日未明、伏見の寺田屋で幕吏に襲われ、負傷。
2月5日、桂小五郎の求めで薩長同盟の保証人になる。
3月5日、薩摩藩船で大坂から鹿児島へ。お龍との新婚旅行となる。
6月、幕長戦での下関海戦に参戦し、長州軍を応援、高杉晋作と会談。(32歳)
1867
慶応3年
  4月/徒士目付役格式御用人に京都へ差し立てられる。
6月/西郷隆盛を相国寺に訪問。
7月/中岡慎太郎と頻繁に行き来する。
8月/辞職願いを提出するも認められず。
9月/西郷隆盛、大原卿と頻繁に行き来する。
10月18日/坂本龍馬から望月清平に宛てられた手紙の中に 樋口真吉への伝言があった。
(53歳)

4月上旬、脱藩罪を許されて亀山社中を改編、土佐藩庇護のもと「土佐海援隊」となり
龍馬は隊長となる。
4月23日、「いろは丸事件」が起こる。
6月9日、後藤象二郎と土佐藩船で長崎を出航し、「船中八策」を起草する。
6月22日、龍馬と中岡の立会いで、薩摩の西郷・大久保らと土佐の後藤・福岡らの間に 「薩土盟約」締結。
9月29日、脱藩以来、最初で最後となる帰郷で実家に帰る。
10月3日、大政奉還建白書が山内容堂から幕府に提出される。
10月14日、徳川慶喜、「大政奉還」を願い出て翌日勅許。討幕の密勅、薩長に下る。
11月上旬、「新政府綱領八策」を起草。
11月15日、京都・近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲われ、凶刃に斃れる。
12月9日、「王政復古の大号令」が出される。(33歳)

1868
慶応4年/
明治元年
  1月/伏見戦争始まる。
砲車を引いて少人数で参戦。
神戸で奪われた錦旗を取り返し、守護して征討戦に貢献。
4月/戊辰戦争に本格的に参入する。
ジョン万次郎を招いて飲む?
5月/軍夫募集のためスイス人の仲介で英国籍の蒸気船で帰高。
戊辰戦争では主に兵站を担当・小荷駄裁判役となる。
11月/高知へ凱旋。(54歳)

3月、新政府「新政府綱領八策」をもとに「五箇条の御誓文」を発布。
~明治元 ○4月11日、江戸城無血開城。

閏4月24日、後に龍馬の跡目を継ぐ甥・高松太郎(坂本直)が、新政府の役人として蝦夷地・ 箱館(現在の函館市)に渡る。
閏4月27日、海援隊解散となる。
明治維新。

1869
明治2年
明治新政府より東大前身の開成学校教授に任命される。 (42歳) 2月/長州及び薩摩へ出張する(〜4月)。
11月/徳大寺大納言家公務人拝命する。

(55歳)
 
       
1870
明治3年
 普仏戦争視察団の林有造らの通訳として横浜出港。
サンフランシスコから大陸横断鉄道でバッファロー、ナイアガラ、ニューヨークへ、途中ニューヨークに立ち寄った際、 万次郎はフォアヘブンに恩人ホイットフィールド船長を訪ね、20年ぶりに再会を果たしている。
ロンドンに於いてリューマチが悪化し1人帰国する。 (43歳)
1月/叙従七位。
6月/東京麻布の客舎にて病没する。
(56歳)
 
       
1879
明治12年
母しお病死す(86歳)。
(52歳)
   
       
1886
明治19年
ホイットフィールド船長没(82歳)。
(59歳)
   
       
1888
明治21年
万次郎物語「土佐半紙初荷艦」歌舞伎上演される。万次郎観劇する。 (61歳)    
       
1898
明治31年
11月12日万次郎脳溢血にて死亡する。
享年71歳。
   
       
   幕末太平洋を漂流する、土佐の名も無き一漁民。アメリカの捕鯨船が彼をすくったとき、冒険が始まった。
アメリカで学びつつ、捕鯨船の乗組員として7つの海をめぐり、10年間の異国生活を過ごした万次郎。
彼が帰国したとき、日本国内は開国と攘夷に揺れる幕末動乱期であった。
   
       
   アメリカを知り「ジョン・マン」と呼ばれた男を待っていたものとは。
ジョン万次郎の数奇な生涯、そして地球7周の堂々たる人生であった。
   
       
       
 
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